あとがき

"いづれの御時にか、
女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、
いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御かたがた、
めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
それより下揩フ更衣たちは、
ましてやすからず。"
という書き出しからはじまる
日本で唯一の文化遺産「源氏物語」五十四帖。
帝王にして四代(桐壺、朱雀、冷泉、今上)、七十五年に及ぶ長大な物語で、
登場人物の総数は四百三十人余り
千年も昔に紫式部という子持ちの寡婦によって書き残された
傑作長編大恋愛小説です。
このホームページはその小説のドアをほんの二、三回ノックしただけ
今回源氏物語に少しでも興味を持たれた方は
ご自分で本を読んで、ぜひその手でそのドアを
開けてみてください。
解説
花菱文様和泉式部続集切乙
(あとがき背景画)
和泉式部の家集をかいたもの
藤原行成が書いたといわれているが、
実際は三人の手に成るもので、甲、乙、丙類に分けられる。
甲類の書は雄渾で、小ぶりながら気迫に満ちる。
乙類は左右の振幅が大きく、形にも変化の妙をみせ、華やかである。
供に平安朝を代表する名筆。
ちなみに、源氏物語に登場する朧月夜は
和泉式部がモデルと言われている。
花菱文様襲(かさね)の色目
当時の貴族は、衣服の色の調和にきわめて鋭い感覚をもっていた。
ことに衣服を重ねる襲の色目には、四季折々に適した工夫がなされ、
表裏の色の配合にまで植物名を主とした優雅な名称がつけられていた。
その色目でおよその着用時期(季節)や、身分、年齢がわかる。
色には染色、織色、襲の色目があり、表と裏の布裂を重ねた中間色をさす場合と、
多くの衣服を重ね着して袖口などに見える
色の取り合わせをさす場合とがある。
花菱文様公家について
公家は平安時代に固定化が始まり、藤原北家を中心に、
源氏(清和・宇多・村上・花山・正親町の各天皇を始祖とする家)、
平氏、藤原南家、菅原、清原、卜部、安倍、大江などの一族が各家を確立し、
分家を繰り返して多くの家が成立していきました。
公家が政治の実権を失った頃から、
家々の家格や家業(和歌や楽器、香道や書道、衣紋道、料理など、
各家それぞれの専門的な得意芸で、
家元的な立場に立つことが定まって来ました。
家格は次のようになりました。
花菱文様摂  家
近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家 (摂政・関白になることができました)
花菱文様清華家
三条・今出川・大炊御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我・醍醐・広幡の9家
(太政大臣・左大臣・右大臣・近衛大将になることができましたが摂関にはなれませんでした)
花菱大臣家
中院・正親町三条(後に嵯峨)・三条西の3家
(大臣になることができましたが、近衛大将を兼ねることができないとされました)
花菱文様羽林家
岩倉・四辻・正親町・姉小路・中御門・山科・冷泉・藪・綾小路・中山・飛鳥井・白川・四条など58家
(近衛中将・少将を兼ねて、最高は大納言・参議にまでなることができました)
花菱文様名  家
日野・広橋・烏丸・勧修寺など25家
(羽林家の下、諸大夫の上の立場で、太政官の弁官や蔵人を兼ね、
功績があれば大納言にまでなることができるとされました)
としては代表的なところでは、和歌の冷泉、
笛の三条、琵琶の西園寺、書道の大炊御門、料理の四条、
衣紋道(着付け)の高倉・山科、香道の三条西などがあります。
それぞれ家元的な立場で弟子筋を指導していきました。
花菱文様公家の家紋
公家たちは皆、牛車に乗って参内したので
他家の牛車との識別の必要を生じました。
そこで各家は家ごとにゆかりのある文様を描いて目印としました。
これが公家の家紋の始まりと言われています。
車紋から家紋に直接つながったとされるものに、西園寺家の巴紋、
徳大寺家の御簾裳額(木瓜)、近衛家の牡丹、
花山院家の杜若、日野家の鶴丸などがあります。
また家紋という物が確立されてきますと、
車紋を定めていなかった家々もなにがしかの家紋を設定し始めましたが、
その場合は家の成立にかかわる紋が多いようです。
藤原氏直系を自認する家柄は「藤」にかかわる紋が多いですし、
また久我家など源氏は「龍胆(りんどう)」にかかわる紋が多いようです。
皇室から分かれた広幡家などは菊にかかわる紋です。
菅原氏一族の諸家は道真公が愛した梅を象って家紋にしたと言われます。
さらに分家が生じたときには本家の家紋をそのまま用いたり、
モチーフはそのままに一部加工したりしました
(鶴丸紋の日野家から分かれた広橋家が向かい鶴丸紋など)。
その他興味深いのは三条西家の八ツ丁字車紋で、
これは同家の家業が香道であることから、
香料である丁字(クローブ)をモチーフにしたのでしょう。
ともあれ公家の家紋は、車の文様から由来したものと、出身に由来したもの、
特別のゆかりで定められたものなどがあり、
優美な図柄が多いことが特徴です。
こうした公家の家紋は財政的に困窮していた江戸時代に
お金で譲られたりしたために多くの家々に伝わることとなり、
今では広く一般に用いられています。